父・猪俣義雄は、若い頃は山っ気の多い人だったようです。腰を傷めて酷い神経痛になって治してもらった治療師に弟子入りして治療を習得したのだそうです。父が亡くなった後に父の親友だった矢萩さんという方が、二人で弟子入りしたけど父の素質が凄くて自分は諦めた…と話してくれそのことを知りました。
でも父は他の事業を手広くやっていて治療は仕事としておらず、ボランティアでしていたようです。終戦後、事業が思うようにいかず、ある方の進言で治療院を開業するようになったと聞いています。それまでは「周囲には声を掛けないで欲しい」と言っていた方々に「これからは治療を仕事とするので紹介してください」とお願いし「猪俣治療院」が開業されました。
開業した昭和23年は三女が生まれた年です。疎開先から矢向の地に移り住み、正楽寺の横で間借りをしていた時代、昭和28年に私が生まれる頃には現在の地に家を新築して治療院が営まれていました。全くお金もないのに土地を購入することになり、家を建てるようにお通いの患者さまの支援により建ってしまった家だと話してくれました。
私の生まれた時には、二人のお弟子さんがいました。姉二人の後、流産を繰り返す母、お通いの患者さまが自宅ではできないので猪俣治療院でやって下さいと持ち込まれたのが可視総合光線療法、その出会いのお陰で私が誕生しましたので、「光線の子」って患者様から言われていたようですよ。
私の生まれた頃にはお弟子さんが二人、その方々は80歳を超えた今も現役の治療師で、岐阜県の大垣と保土ヶ谷で治療をされています。私も父のお弟子さんを目標に生涯現役を目指しています。亡き父に問い掛けながら「患者様の良くなることを祈って治療する」日々です。
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